娘が学校に行かなくなった話⑩の続き
なんだか長いブログになってしまった。
いつか覚え書きとしてまとめようと思いつつも、
やっぱり全て解決するまでそんな気にはならなかった。
悩んだりもがいたり
みっともないブログではあったが
これを記そうと思ったのは
実は身近に学校に行かないお子さんをお持ちの方がいるのではないか、
もしかしたら一人で悩まれているのではないかという思いがあったから。
あたしはほんの数カ月だったけど
もっと長期間の方もおられるであろう、
まだまだ数日目という方も、
そのような方がいつか悩んでここにたどり着かれるかもしれない。
そう思い
その時の自分の気持ちを振り返り
思い出しながら書き記したら
思いのほか長くなってしまった。
「学校に行ってちょうだい。」
何度ものどまで出かかった。
そのたび考えた。
「あたしは娘に学校に行ってほしいのか?」
「それはなぜ?」
「何のために?」
ずっとずっと考え続けていた。
答えはおそらく
娘に幸せになってほしいからだと思った。
どの親もそうではないか。
なるべく
平穏無事で
苦労も少なく
「人並みで」幸せな人生を送ってほしいと望むからではないか。
そのため
できれば中学の成績はよくあってほしいし
少しでもよりよい高校へ進学してほしいし
大学も行けるなら行ってほしい。
そして
より安定して待遇の良い仕事を得てほしいと願うからでないか
という自分なりの結論に至った。
そして
それは親の勝手な願望だと気付いた。
もちろん娘のためではあったけど。
人並みが幸せとは限らない。
その人の尺度の幸せがあるのに。
娘の
勝手な幸せを予想し
そのための(親なりの)勝手な最短距離の道のりを想定し
そこを一本道で進んでほしい、と。
親の考える幸せなんて
40数年生きてきた知恵と経験が結集した賜物であり
(もちろんおそらくそれが最良だったりするけれど)
それを10数年生きてきた子どもに理解せよというのは
土台無理なのである。
そんなことが15歳くらいで理解できたら
素晴らしい人生なのだが
そんなのわかるわけないから
遠回りしたり迷ったりするわけで。
でもその経験により
人にやさしく寄り添うことを覚えたり
人の痛みを分かち合えるようになったり
それが本当は
もっと大切なことなんじゃないかと思う。
それに幸せな人生だったかなんて
死ぬときにしかわからんのじゃないかと思う。(あたしの持論!
娘は娘なりの精いっぱいのベストな選択をしたのであろう。
今回のことは不登校ではなく
人生の微調整だったと思う。
そしてあたしもたくさん考える機会と学びをもらった。
あたしはまた娘に親にしてもらった。